時代を造ったクルマたち vol.23
ターゲットはポルシェ 911
今回は3月13日、85歳で亡くなったマルチェッロ・ガンディーニへの追悼の意も込めてランボルギーニ ウラッコを取り上げる。
鳴り物入りでデビューを飾ったランボルギーニ ミウラは絶賛の嵐で、全世界の富裕顧客から注文が殺到した。ランボルギーニという新しいブランドが 世界の注目を集めつつあるなか、オーナーのフェルッチオ・ランボルギーニから役員たちに向けて爆弾発言が発せられたのは1967年のこと。それは「自動車部門の解散を考えている」というとんでもない内容であった。
フェルッチオは勢いを増す労働争議や、想像以上に困難を極める開発製造プロセスなどから、スーパーカービジネスの将来を疑問視していたのも事実であったが、一方でこの事業は技術に明るく、積極性を持った若い世代に託すべきだと考えていたことが、この発言に繋がった。そう、自動車事業継続の条件とはまだ20代であったパオロ・スタンツァーニのCEO就任であったのだ。ジャンパオロ・ダラーラと共にミウラの開発の主力であったパオロ・スタンツァーニはチーフエンジニアのみならず自動車事業のCEOの大役を命ぜられることとなったのだ。
スタンツァーニが描いた事業計画とはミウラの後継たるフラッグシップと、量産し収益を生み出すことの可能な実用的スポーツカーの開発という二本柱から成り立っていた。その前者がカウンタックであり、後者がウラッコであった。
もう一つの大きな取り組みは、製造工程を極限まで内製化することだった。それまではモデナ産スポーツカーメーカーの作法に則って、トリノのカロッツェリアにスタイリング開発とボディ製造の全てを任せていた。しかし350GTを委託していたトゥーリング社が経営破綻してしまったように、カロッツェリアのビジネスも転換期にあったし、その委託コストは急上昇していた。カウンタックに関して、ベルトーネにスタイリング開発こそ委託したものの、実際の製造はランボルギーニ社内で行う画期的な体制を作ってしまった。ただしこれはカウンタックという極少量生産を前提としたモデルであるからこそ成立し得たとも言える。
一方、ウラッコはそのターゲットをポルシェ 911に置いた、それなりの量産モデルを想定していた。であるから、ボディも製造には大がかりな治具を必要とするモノコックタイプ(シャーシ、ボディ一体型)を想定し、社内でその製造ラインを作ることまでも計画していた。このような従来のモデナをベースとするスポーツカーメーカーが成し遂げることのできなかった新しい取り組みをパオロ・スタンツァーニは頭の中に描いていた。確かにフェルッチオの読み通り、古くからの作法に固執した古い頭から生まれ得ない発想であったことは間違いない。