時代を造ったクルマたち vol.19
革新性を重視した“孝行息子”
ランボルギーニ ディアブロがデビューを飾ったのは1990年1月のこと。基本レイアウトはカウンタックの縦置き“前後逆配置”のミッドマウントを踏襲するものの、各部は90年代のニューモデルに相応しいアップデートが行われた。5.7リッターへと拡大されたV12DOHCエンジンにはオフィシャルに独自のインジェクションシステムが採用され、最高速度は325km/hと誇らしげに謳われた。
「私はライバルであるフェラーリが保守的なエンジニアリングを好むことをよく知っていたから、ランボルギーニのDNAである革新性を重視した。そしてもちろんパフォーマンスも。この最高速度はF40を“ちゃんと”凌いでいたからね」と笑うのはディアブロのチーフエンジニア、ルイジ・マルミローリだ。
ルイジ・マルミローリ。フィオラーノに生まれ、フェラーリのエグゾーストノートを子守歌に育ち、フェラーリのエンジニアとして故フォルギエーリらとレースカーの開発を行った後、アルファ ロメオ F1を手がけた。そしてその後に手がけたのが、このディアブロである。
市販車最速のスーパーカーは世界的な好景気の中で大きく脚光を浴びた。日本も折しものバブル経済に浮かれていた良き時代であった。飛ぶ鳥を落とす勢いであったリー・アイアコッカによるクライスラーの拡大政策のシンボルとしての役割を果たしたディアブロ、そしてランボルギーニの未来は安泰であると誰もが思ったことであろう。
ディアブロは2001年まで10年あまり、ブランドを代表するモデルとして3000台あまりが生産された。 この一つのモデルでランボルギーニ社の屋台骨を支えたのだから、まさに孝行息子である。ところが現在、ランボルギーニのヒストリーにおいて、このディアブロには残念ながら全く日が当たらない。先だっての生誕30周年という記念すべきメモリアルイヤーにおいては、さすがのルイジも拍子抜けしていた。
まあ、それには幾つかの理由がある。一つはリー・アイアコッカ率いるクライスラーのマネージメント時代に生まれ、デトロイト・ブランドとのシナジーが謳われたという背景、そしてクライスラーの後を引き継いだインドネシアン・マネージメントにおけるダーティなイメージが大きく影響している。つまり、サンタアガタを起源とするランボルギーニの純血種ではないという解釈だ。
そしてもう一つはカウンタックの存在だ。1971年のジュネーブモーターショーでコンセプトモデルがデビューを飾ってから1990年まで20年近くも生産が続いた。いくら少量生産スポーツカーだからといってこれはあまりにも長い。普通であるならディアブロとの間にもうワンジェネレーション異なったモデルがあっても良いはずだ。
安全基準も空力の最適化も何も考えずに描いた未来の自動車ヴィジョンがそのままロードカーとして作られてしまったのがカウンタックだ。その革新的なスタイリングは20年を経ても誰一人フォロワーは現れず、デザイントレンドとはならなかった。だから、カウンタックのスタイリングは斬新であり、決して陳腐化しなかった。
つまりタイムカプセルにでも入ったかのようにカウンタックの存在は神格化していたのだ。