東京五輪のゴルフ日本代表ヘッドコーチを務める丸山茂樹プロが、オリンピアンと語らいながらそのライフスタイルを深掘りする本企画。第12回のゲストは、2008年北京五輪の新体操日本代表「フェアリージャパン」のメンバー坪井保菜美さん。引退後プロゴルファーを目指した逸話も飛び出した。
【Fun for Win】VOL.12
東京五輪ゴルフ日本代表ヘッドコーチ 丸山茂樹×坪井保菜美[前編]
丸山茂樹さん
1969年生まれ。千葉出身。日本ツアー通算10勝。2000年よりアメリカツアーに参戦して3勝。2002年には伊澤利光プロとゴルフワールドカップを制覇。現在はゴルフ解説などで活躍する傍ら、ジュニアゴルファーの育成にも尽力。東京五輪ではリオデジャネイロ五輪に続き、ゴルフ日本代表ヘッドコーチを務める。愛称は“マルちゃん”。セガサミーホールディングス所属。
坪井保菜美さん
1989年生まれ、岐阜出身。5歳から新体操を始め、2008年の北京五輪に日本代表「フェアリージャパン」のメンバーとして出場。翌年、世界選手権大会の種目別決勝で4位入賞し、同年、二十歳で現役引退。現在は新体操の指導者やヨガのインストラクターとして教えるほかに、タレントや趣味の絵を生かしてアーティストとしても活動している。愛称は“ほっち”。
二人は境遇が似ている?ジュニア時代から注目の的
丸山 さすが、元新体操日本代表「フェアリージャパン」! 身体が柔らかくて驚きです。なぜ、新体操を始めようと思ったんですか?
坪井 元気で活発な子どもだったので、5歳のときに親の勧めで地元・岐阜の新体操クラブに入ったのがきっかけです。翌年オーディションを受けて、クラブ内の選手クラスに移りました。
丸山 新体操を始めてすぐに、才能を見出されたんですね。
坪井 ぼーっとしているところが、よかったようです(笑)。そもそも選手になることには興味がなくて、オーディション当日は年賀状用の家族写真を撮るために、公園に行っていたんです。するとコーチが「ほっち、どこにいるの!?」と電話がかかってきて、急いでクラブに向かいました。実は海外の有名コーチも来ていた大事なオーディションで、みんながレオタード姿のなか一人だけ私服で参加しました。
丸山 高校時代には北京五輪の強化選手にもスカウトされて、まさにシンデレラストーリーですね。
坪井 17歳のときでしたね。2年後の2008年に開かれる北京五輪を目指して、合宿が始まったのは。全国から集まったメンバー12人と、千葉で共同生活をしながら練習に打ち込みました。
丸山 共同生活ですか。我儘な僕には考えられません。
坪井 マンションタイプの部屋に3人一組で暮らしていたので、それぞれの部屋はありました。
丸山 それを聞いてほっとしました。家族と旅行するときも僕は相部屋が苦手で、一人だけ別の部屋を取る程なので。そんな現役時代に、習慣にされていたことはありますか?
坪井 それまでは個人競技の選手だったので、まずは団体競技に慣れることでしたね。
丸山 新体操における団体競技の難しさとは、どんなことですか?
坪井 手具の持ち方にしても、上から持つ選手、下から持つ選手と様々。それをみんなで揃えるのが大変でした。
丸山 ゴルフクラブの持ち方はみんな大抵同じですが、新体操はそこからなんですね。
坪井 演技の呼吸を合わせる難しさもあります。声掛けやアイコンタクトを駆使していましたね。
丸山 意外ですね。試合中に声を掛け合ってもいいんですね。
坪井 メンバー同士に聞こえる程度の大きさであればOKなんです。号令をかけたり、調子の悪い子がいると「がんばって!」と励ましたりはよくしていましたね。
丸山 呼吸が合うまで何度でも?
坪井 エンドレスです。新体操の手具はボール、クラブ、リボン、ロープ、フープと5つあるんですが、手具を投げ合って選手同士で交換するのは団体競技特有の動き。手具が落下すればもちろん、走って取ってもミスになります。全員がピタッとキャッチできたら1回成功とカウントして、それを10回成功させるまで練習が終わらないこともありました。連続で500回続けたこともありますよ。
丸山 なかなかのスポ根ですね。
坪井 最後の10回目で自分が落としたりすると、みんなの視線が痛い(笑)。
丸山 それでも新体操は、笑顔で踊らなければいけない?
坪井 笑顔も芸術点の要素なので、演技と合っていなければ減点対象になるんです。コーチからは練習のミスをプライベートに持ち込まないようにと言われていましたが、四六時中一緒ですから難しいこともありました。私はスロースターターで、自分のスイッチが入るまで待つタイプ。それでも必死についていきましたが、「やればできるのに遅い」「省エネしないで」などと言われて落ち込むこともありましたね。