>> この記事の先頭に戻る

まずは音楽との出会いとか、作詞を始めるきっかけなど・・・

——昨年、松山さんの出身地である京都にご一緒させて頂き、生まれ育った東福寺、泉涌寺界隈もご案内いただきました。子供のころよく遊んだという新熊野神社にも行きましたね。

松山 そうでしたね。あそこが芸能の神様だって、子供の頃、僕も知らなかったの。世阿弥が初めて足利義満と出会った場所なんですよ。あそこの前に、8が付く日に縁日が立って、賑わったものです。

——それでですね、この企画では”時計王”として知られる松山さんが、実は数々のヒット曲を手がけられた作詞家としての顔をお持ちだということを、ご存知ない読者も最近少なくないようなんですね。そこで、作詞家・松山猛の実像を明らかにしつつ、あの時代、つまり60年代後半から70年代初頭のフォークが台頭し始めた当時の、日本のミュージックシーンを、松山さんを視座として眺めていけたらな、と思っているんです。
まずは、松山さんの音楽との出会いとか、作詞を始めるきっかけから伺っていければと思うのですが。

松山 音楽そのものの体験としては、中学時代、吹奏楽部でトランペットを吹いていたんですよ。公立の中学校で、ベートーベンっていうあだ名の稲垣先生っていったかな、音楽の先生が、僕らが1年生のときに、吹奏楽部を始めようって言って、部員を募集したんです。おもしろかったね、それなりに演奏できるようになって、京都会館で演奏したりしましたよ。「軽騎兵」とか、スタンダードなマーチングバンドで。
音楽は、12歳離れてた兄の影響が大きかったかな。もう4年ほど前に亡くなりましたけどね。兄はハワイアンやってて、家にバンドのみんなが、しょっちゅう練習しに来てたんです。兄は器用な人だったんで、自分でスチールギターとか作っちゃうんだ。ハワイアンはよく耳にしてたけど、僕にはやらしてくれなかったな。

——ポップス系の音楽は、その頃、もう聞かれていたんですか?

松山 もう聞いてましたけど、ポップ・ミュージックの前にね、兄の結婚した相手が、ジャズ喫茶の雇われママみたいなのをやっていて、店で聞き古したレコードをちょこちょこもらって聞いてたんです。中学は吹奏学部だったけど、高校入るとモダンジャズの時代で、生意気なもんだから、ジャズ喫茶にいりびたって(笑)。木屋町をちょっとあがったところには「ダウンビート」、三条の方に戻って来ると「ブルーノート」っていう店、兄の嫁さんはブルーノートでしたね。荒神口のところに行くと「しぁんくれーる」、もっと西のほう行くと「ケント」とか。結構たくさんあったね。

——京都ってそういう音楽文化が盛んでしたよね?

松山 学生の街だからね。当時はそれこそマイルス・デイヴィスだとか、ディジー・ガレスピーだとか、MJQだとか、アート・ブレイキーだとか、クルセダーズだとか。いわゆる外タレが京都に来ると、バイトしては、そのお金で見に行ってましたよ。一番感動したのは京都都会館で見たMJQかなあ、カッコよかった。アート・ブレイキーも3回ぐらい見たかな。そのころは、もう楽器はやっていなくて、ギターをちょこちょこ程度で。年上の連中に教えてもらった「禁じられた遊び」とかね。

——モダンジャズにドップリ?

松山 ジャズを聴いたら面白かったからね。でも、ちょうどそのころに、ジョーン・バエズが出てきたの。もう、全く違うよね。ジャズを聴いてるやつはそういうのを聴いちゃいけないみたいな風潮があったんです。だから、あんまり聴いてない人が多かったの。でも、うちの義理の姉の後にブルーノートをやってた、ボンっていうあだ名の人がいて、あるときジョーン・バエズのシングル盤の「ドナドナ」を買ってきて、「今日はこういうの聴いてみようか」ってことになったんですよ。そうしたら「こういう世界もあるのか、こういうのもいいよね」みたいなみたいな感じになって。

——じゃあ、そのとき、結構衝撃があったんですね。

松山 そうね。結構説得力がある歌だったから。そのもうちょっと前に、同じようなテーマの映画があったんですね。僕が小学校か中学校のとき、「黒い牡牛」っていったかな。いわゆる、飼っている牡牛が売られていく、それもありましたね。

——まさに「ドナドナ」的な。

松山 そう、「ドナドナ」的な。ジャズって、やっぱり、集中して聴かなきゃいけないとか、わかったふりをしなきゃいけないっていうかね、そういう時代だったんだね。

——ちょっと小難しさはありますよね。

松山 そうそう。楽しいジャズもあるんだけど、どんどん迷路に入っていくようなのもあったし。実際そういうのにちょっと入ってたのかもしれないね。

——なるほど。じゃあそのへんからフォークに、徐々に傾斜していく?

松山 当時、僕はステレオとか持ってなかったので、もっぱら、家で聴いてたのはラジオだった。音楽番組の時間も結構があってね、フォークもかかったりし始めたわけですよ。

——何年ぐらいなんですか。

松山 1964、5年かなあ。

——東京オリンピックの頃ですね。

松山 うん。フォークをやってる人たちが、そのへんから出てきたんですね。京都にはカントリーウエスタンとかハワイアンの土壌が既にあったね。大学生たちのサークルみたいなのがたくさんあったと思います。

——そこらへんは学生運動的な動きとも絡んだり?

松山 そういうのも、ちょっとあったね。

  1. 2
3
LINE
SmartNews
ビジネスの装いルール完全BOOK
星のや
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE
pagetop