【中井貴一の好貴心】Special《私の自動車の大先輩・羽仁さんを訪ねて鹿児島へ-後編-》
中井
「 走ること、そしてフォルムの美しさ、それで僕の中の車はもう完成なんです」
羽仁
「 自動車というものの基本はそこ。基本だけあればいいんですよ(笑)」
車に捧げた半生と、”基本さえあればいい”ヴィンテージカーの神髄
中井羽仁さんが、自動車に惹かれ始めたのはいつからですか?
羽仁物心つき始めた頃から、自動車が大好きでした。一番衝撃的だったのは、昭和32年に大学受験のために、同級生たちと初めて上京したときです。僕は虎ノ門、赤坂あたりのGHQ関係の車がずらっと並んでいるところに出かけて、車の写真を撮りまくり、そのとき「大学行ってもどうしようもない。それより車だ!」と思ったんです。それで受験しないで帰った。親父には怒られる、おふくろには泣かれる。でも東京で何台もの外車を目の当たりにして、僕の人生は変わっちゃったんです。
中井お父様はどんな方でしたか。
羽仁自動車の練習所、今でいう自動車教習所をしていました。シボレーからガソリンタンクを外し、木炭で動くように改造した車1台だけ持っていて。鹿児島に外車が8台ほどしかない時代でした。親父の時代は、庶民は自動車に乗れず、運転手ではなくて運転士と言われて、尊敬されていたんです。県知事のお付き運転士が、事故や病気になった場合の控えが、親父でした。天皇陛下の鹿児島行幸の際も御料車に乗ったんです。
中井自動車学校を継ごうと?
羽仁いや、親父の車ではだめ。進駐軍の自動車に乗りたかった。朝鮮戦争の直前、福岡の板付や、長崎の佐世保の米軍基地から外車を買い付けて、鹿児島の金持ちに売るブローカーがいたんです。
中井それをやろうと?
羽仁夜行列車に乗って一人で板付基地のゲートまで行って、”FOR SALE”と書いてある車があると、交渉しに行く。でも子どもだし、手持ちの資金もないから、相手にされない。そこで、米兵が集まる一杯飲み屋に紛れ込んで、フィーリングが合うのを見つけて「君の車を高く買ってくれる人がいるから、付き合ってくれ」と。それで、いろいろと手続きして、その米兵と一緒に鹿児島まで車に乗っていくわけです。「すぐそこだ」と嘘をついてますから、熊本あたりで揉めますが、なんとか鹿児島の買い主のところまで行く。大風呂敷に包まないと持てないくらいの大金になりましたよ。
中井それを繰り返して、蓄えを作っていったわけですね。
羽仁まだ下駄履きの子ども風情でしたが、自動車のことを一生懸命勉強してメンテもできましたから、他の成金風ディーラーより、ずっと好感を持たれた。それに僕のほうが利益を少なくして、安く売っていましたから。そうやって何台か売ると、後は自分の資金で買えるようになってきました。
中井いつ頃現在の自動車販売の業態にされたんですか?
鹿児島出身の中井さん元マネージャーお勧めの鹿児島名物店も、羽仁さんと一緒に訪問。