>> この記事の先頭に戻る

1台のみが制作されたフェラーリ4ドアモデルの試金石

フェラーリ ピニン
1980年に発表されたコンセプトモデル「フェラーリ ピニン」。

当時、ピニンファリーナはフェラーリの専属デザインセンターのような存在であったし、エンジニアリングを含むクルマ全体のコンセプトに関しても開発提案する立場にあった。もちろんこのピニンもフェラーリからの承認を得て、ベースとなるコンポーネンツの提供を受けている。エンツォ・フェラーリ自身もフィオラノでおこなわれたピニンのプレゼンテーションにおいて、自らこのクルマに乗り込み、「このデザインはとても良い」と評し、当時、親会社フィアットの重要な役員としてフェラーリを担当していたルカ・モンテゼーモロもそのプロポーションをとても美しいと評価した。

フェラーリ ピニンのディテールをチェック(画像3枚)

<p>エクステリアはシャープなイメージでまとめられている。</p>

エクステリアはシャープなイメージでまとめられている。

地をはうような低いノーズを持ち、低くスムーズなプロポーションが特徴だ。そして、全体的にシャープなイメージでまとめられている。サイドのクリーンでありながらも凝ったキャラクターラインを持つこのスタイリングは、フィオラヴァンティのディレクションの元、フェラーリ・テスタロッサなどを担当したディエゴ・オッティナの筆によるものである。このピニンファリーナの文脈でデザインされたサルーンは当時、大変にセンセーショナルかつ、高い評価が下されたようだ。さらにこのピニンに続いて、ピニンファリーナ内部ではピニンIIと名付けられた当時のラインナップにあったモンディアルとデザインの親和性の高いバリエーションの開発も進んでいた。初の4ドアフェラーリの誕生を目指して…

ピニンファリーナ親子
1952年の夕食会の一シーン。エンツォ・フェラーリを中央にピニンファリーナ親子が両側に座った。

しかし結果的にこのピニン・プロジェクトはお蔵入りしてしまった。巷ではエンツォが最後で商品化に反対したというような説も流れているが、筆者としては必ずしもそうではないと考えている。要はフィアット・サイドからの同意が得られなかったようなのだ。フィアットの重鎮、ジャンニ・アニエッリが当時全幅の信頼を寄せていたフィアット・オートトップのヴィットリオ・ギデッラがその決断を下したとされている。つまりこのモデルのボディをいかに4ドアサルーン開発に経験のあるピニンファリーナが仕上げようともメルセデスのSクラスのような、ドイツ製高性能サルーンのクオリティと戦うことは出来ないという判断であった。これは正しい判断であったと言えよう。当時、イタリアでは労働争議が多発しており、完成車のクオリティは地に落ちていた。それだけではない。プロサングエの項で述べたようにサルーンとしての快適性に満足のいくモデルに仕上げるのはそう簡単なことではない、という判断もあったはずだ。

果たして40年前にこの正しい判断があったおかげで、プロサングエはフェラーリの新しいカテゴリーの一つとして認知されることになったと考えたい。そう考えるとこの不運なピニンはフェラーリ4ドアの試金石として重要な役割を果たしたのではないだろうか。ちなみにこの1台だけ製作されたピニンはモデナの熱心なエキゾチックカー・ディーラーのオーナーが2008年に入手した。実はこのピニン、メカニカル系は全てダミーで、エンジンですらドンガラであった。元フェラーリの著名エンジニアの努力によってピニンはついにモデナの道を走ることがかなった。そのエンジニアとは先日訃報を聞くこととなったマウロ・フォルギエリその人であった。

文=越湖信一 写真=Autospeak Modena, Ferrari S.p.A., Pininfarina 編集=iconic

関連記事:「初めてのフェラーリ」はどれを選ぶべき? ローマとポルトフィーノMを比較してみた

<p>エクステリアはシャープなイメージでまとめられている。</p>

エクステリアはシャープなイメージでまとめられている。

  1. 2
LINE
SmartNews
ビジネスの装いルール完全BOOK
星のや
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE
pagetop