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北米での終焉と欧州での復活

結局、パンテーラはフォードの安全基準や品質基準に合致していない点が確認され、顧客へデリバリーされたクルマはいったん引き揚げて、多くの改善作業がフォードのサービス網にて行われた。その経費たるや相当のものであったようだ。そのような混乱の中で、アレッサンドロ・デ・トマソとフォードの関係は完全に決裂した。フォードがパンテーラの生産をはじめとする全てをコントロールすることになり、なんとデ・トマソ社はプロジェクトから一切手を引いてしまったのだ。(この事実を知る者は少ないし、そもそもフォードからデ・トマソに関する記述は全て抹消されている。)

そんな混乱に追い打ちをかけるように起こったのが第一次オイルショックだ。もはや、フォードとしてはパンテーラにリソースを割く余裕はなくなっていた。スポーツカー冬の時代の到来と共に北米における“フォード”パンテーラは終焉を迎えた。

プロジェクトから手を引いてしまったアレッサンドロ・デ・トマソであるが、彼はそんなフォードとの軋轢を予期していたかのように、彼らにとって都合のよいコントラクトをフォードと結んでいた。それは北米におけるパンテーラの権利はフォードに預けるが、ヨーロッパを中心とした北米以外の地域においては全てデ・トマソ社がコントロールするという契約であった。つまり、北米以外ではデ・トマソ社が自由にパンテーラを製造・販売できることを意味した。

欧州仕様のパンテーラGT5
こちらは欧州仕様のパンテーラGT5。

フォードとの喧嘩別れの後、デ・トマソ社は早速、ヨーロッパ仕様のパンテーラの販売を始めた。その販売数量はさほど大きなものではなかったが、ワイドボディのGT5などをはじめとして、マルチェッロ・ガンディーニのスタイリングによるビッグ・マイナーチェンジ版とも言えるパンテーラSIなどその進化は続いた。

2世代目となるパンテーラSi
1990年に登場した2世代目となるパンテーラSi。40台にも満たない生産台数で、1993年には生産が打ち切られている。

結局、1993年まで総計9000台のパンテーラがマーケットへ導入されたことになる。この数量はモデナ産スーパーカーとしては記録的な数字であり、パンテーラがスーパーカー・マーケットで果たした役割は現在、高く評価されている。前述したトラブル満載であった最初期モデルも近年そのクラシックカーとしての人気が特に高まっている。これも何とも皮肉なハナシではないか。

越湖信一

モデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職のレコード会社ディレクター時代から、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete GuideⅡ』などがある。

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文=越湖信一 EKKO PROJECT 写真=DeTomaso Archive、越湖信一 編集=iconic

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