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——なるほど。その頃、加藤さんと曲作りのやりとりされてるときは、曲が先だったんですか、詞が先だったんですか?

松山 どっちもありだったな。一緒にやり始めるときは、最初のほうで、加藤がちょこっと歌ったり、なんか弾いたりってこともあったかもしれないね。僕の印象としては。詞を先に書いたのが多かったかもしれない。

——じゃあ、それに曲を付けつけていくことが多かったと。

松山 北山(編注:北山修氏。この連載の中でも語られているように、松山氏、加藤氏とは、フォーク・クルセダーズ時代からの盟友と言うべき存在)は「逆だった」って言ってたね。「メロディが先にあった」って。加藤がメロディ作って、北山がそれに合わせて詞を書くっていう。まあ、いろんなケースがあったと思うけどね。

——それで『スーパー・ガス』で一区切りみたいな感じになったわけですよね。

松山 僕も雑誌の仕事に目覚めたっていうか。70年にもう『an・an』や『平凡パンチ』の仕事を始めてるから。その辺からだね。『スーパー・ガス』の次に、加藤は何作ったかな?

——『スーパー・ガス』の次は、72年がアグネス・チャンの『妖精の詩』とかっていう時代ですよね。

松山 73年から、もうサディスティック・ミカ・バンドやり始めてるしょう? 72年ぐらいから、いろんなメンバーが集まり始めてた記憶があるね。つのだ☆ひろ、とか、わさわさといろんな人が。

加藤の世田谷の一軒家の後かなあ。白金の辺りに加藤が住んでた時期もあるんだよ。あれ? どっちが先だったか、白金のほうが先かな。白金、世田谷かな。ミカ・バンドのファーストアルバムが出たのは1973年だから、その頃は白金にみんながよく集まってたような気がするなあ。杉の木屋っていうスーパーの近所で、目黒トンネルの手前を入ったあたり。

その頃から、加藤のやりたいことが、ちょっとロックがかってきたんだよね。

——いったん、『スーパー・ガス』までで第1次期的な世界観が何となく完結して、新しいアプローチに移行していくわけですね。

松山 まあ、そうだね。それまでは加藤中心の曲作りだったのが、今度はバンドとしての曲作りになっていったんだね。

サディスティック・ミカ・バンド始動

——ファーストアルバムの、その名もズバリ『サディスティック・ミカ・バンド』は、ほとんどが松山さんの作詞ですよね。そういうロック的なアプローチになってきて、少し詞の内容が変わるみたいなことあったんですか。

松山 うーん、加藤とどんな話ししてたか、あんまり覚えてないんだけど、そこから要するに、セカンドアルバムの『黒船』につながってくんだよ。そのときには、「もうちょっとこう、まとまったのをやりたいよね」って。ばらばらの曲じゃなくて、「アルバム全体がコンセプト持ってるような、ピンク・フロイドみたいなものを作りたいね」って話でした。どっちかと言うと、僕の方から、そういうアイデアを出して。

——それはもう、ファーストのときからっていうことですかね?

松山 これをやった後ぐらいに、そういう気持ちが余計強くなったんじゃないかな。 ちょうど、映画『未知との遭遇』が大はやりした時期で、「日本人にとってのクロース・エンカウンターって何なんだろう?」って思ったら、やっぱり黒船の襲来、あれは当時の日本人にとっては、宇宙人に遭うのと同じようなすごいショックな出来事だったんじゃないの?と。

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