2012年1月から3月にかけて放映された、鎌倉を舞台にしたドラマ『最後から二番目の恋』というドラマで、私は鎌倉市役所観光推進課課長、長倉和平という役を演じさせて頂きました。
これがご縁で、鎌倉市国際観光親善大使を仰せつかることにもなりました。
この鎌倉、実は京都と並び、ある意味私のルーツであり、
自分の人生を顧みる時、外せない場所なのです。
目に見えない不思議な縁を感じながら、今回は鎌倉を歩いてみました。
子供の頃から、物事を決めるときはいつも天国の親父が背中を押してくれている気がする。
─だから今、生きていて俳優の仕事をしていられるのも、そこに自分の力はゼロだと思うんです。
父の法要を機に導かれた生涯の仕事、役者への道
1964年8月17日、父佐田啓二は、真夏の猛暑の盛り、この連載でも取り上げた蓼科の山の家からの帰り道、37歳という若さで、事故により天へ召された。
父の後ろ姿を見たことがない私には、幼き頃より俳優になりたいなどという選択肢は、どの年代においても頭になかった。恥ずかしがりやで人見知り、極度の赤面症ときたら、ご理解頂けると思う。教室で先生に「中井、答えて」と言われるだけで、もう顔から火がでる程。
そんな私が、大学に進学した1980年。父の十七回忌法要を墓所である北鎌倉の円覚寺で行なった。丸16年の月日は経ったが、笠智衆さんをはじめ、父の俳優仲間、映画関係者の方々に足を運んで頂き、温かい法要を執り行うことができた。その中に、父のゴルフ仲間で、私のデビュー作の映画監督であった松林宗恵監督もいらっしゃった。
私はその日、丁度テニスの試合と重なり、遅れて法要に参加した。もともとメラニン色素が多いのか、体育会に所属していた頃の夏場の私は、驚く程日に焼け、色黒などという言葉を遥かに越え、他国の人ではないかと思われるほどの黒さであった(スキンケアなどという言葉は、まだまだ知識の中に存在していなかった)。私は制服で、大荷物を背負って、法要の会場へ。そんな私を見て、松林監督が私のデビュー作になる映画『連合艦隊』への出演をオファーして下さったことは、前回触れた通りだ。ここから、赤面症&人見知りの自分が、俳優という仕事をやってみようと思うまで、相当の葛藤があったのだが、それについては、またどこかでお話ししたいと思う。
映画は翌年の2月からクランクイン。お芝居とは全く縁遠い運動ばかりしてきた19歳の男子が、映画のカメラの前に立つこととなった。しかも戦争映画。頭も丸坊主にされて(我々の時代、部活での最高罰則が丸坊主であったため、これにはもの凄い抵抗があった)。2ヶ月程で、私の出演場面は撮影終了。その年の8月に公開となったのだが、幸いにも多くの方に御覧頂き、配収はその年のNo.1に。このことが、私の人生を決めたと言っても過言ではないだろう。すぐに、次の映画のお話を頂き、恥ずかしながら俳優と呼ばれる職業の片隅においてもらうこととなった。