小さい頃、お墓参りのあとは小町通りのおでんやさんに行って─
中井家にとって最高に贅沢な1日でした
京都出身の俳優と食堂の娘が鎌倉で恋をして……それが僕のルーツ
こうして鎌倉で見初められて(というのも気が引けるのだが)、デビュー間もない頃、父の友人の松竹関係の方が、こんな言葉を掛けてくださったことがある。「僕はね、寛ちゃん(父の本名は中井寛一だったことから、親しい友人の間ではこう呼ばれていた)の息子さんを松竹でデビューさせられなかったのが、恥ずかしい。僕が謝ることじゃないかもしれないけど、謝りたい気持ちでいっぱいだ」と。
父は松竹の俳優だったが、私のデビュー作は東宝。かつては、各映画会社間の垣根が、現在とは比べ物にならないほどはっきりと存在していたのだ。
1945年に終戦を迎え、その後、経済再興、経済発展を合言葉に、高度経済成長期を経て、現在の日本が確立された。そして映画も経済復興と比例するように、黄金期を迎える。戦後復興の中、公共の娯楽は映画ぐらいしかなく、必然的に興行成績はうなぎのぼり。スクリーンは銀幕と呼ばれ、多くの銀幕のスターが生まれた。
そんな中、父は木下恵介監督に見出され、映画人となった。父は京都で生まれ育ち、心から京都を愛していた。高校まで京都で過ごし、大学に通うため上京、大学在学中にスカウトされる。俳優という職業とは無縁と思っていた私自身も、父と同じ年齢で映画の世界へとお声がけ頂いたことを考えると、これもまた何かの縁(えにし)なのかなぁと、不思議な気持ちにさせられる。
こうして父が入った映画会社は松竹映画だった。当時は現在のようなプロダクションシステムではなく、俳優は映画会社に所属し、その映画会社の作品にしか出演しない。つまり俳優も松竹の社員のような立場。照明部、撮影部、美術部などと同様に、俳優部があるという会社構成と思って頂くと分かりやすいかもしれない。後になって、各映画会社間で行き来が始まるのだが、当初は5社協定なるものがあり、他社への出演は制限されていた。
その松竹映画の撮影所があったのが、鎌倉の大船であった。自分の思惑とは違う人生がスタートした父であったが、京都を愛していた青年が、小京都といわれる鎌倉に撮影所を持つ映画会社に入ったことも、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
その頃、東宝映画はプロデューサー主導、東映は俳優主導、松竹は監督主導などと言われていた。異論がある方もいるかもしれないが……。実際、松竹には映画史に名を残す名監督がキラ星の如く在籍していた。監督も俳優同様、当時は社をまたいでの撮影は出来ず、ロケーション以外は皆ホームグランド、つまり松竹の場合は大船撮影所を出ることなく撮影を行っていた。撮影所が通勤場所と思って頂きたい。
働く大人は腹が減る、どこかで聞いた台詞だが、撮影所の周りには、その名監督達が、それぞれ贔屓にしている食堂があった。そしてお互いのテリトリーを侵さないような暗黙の決まりがあったという。撮影所の正門前にあった「月ヶ瀬」という小さな食堂は、小津安二郎監督の御用達。撮影中は、大船撮影所の監督部屋に寝泊りしていた小津先生は、朝、昼、夜を問わず、ここで食事をとられていたようだ。何を隠そう、この「月ヶ瀬」こそ私の祖母がやっていた食堂であり、母の実家なのである。小津監督は母をとても可愛がり、店で食事をとらない時は食通らしくあちこちに連れて行ってもらい、沢山美味しい物をご馳走になった……と、母の談。また、小津先生が高く評価された女優の原節子さんは、映画の中でシニヨンという髪型(お団子風にまとめる髪型だが)をされていたが、これは母の髪型を気に入った小津監督からの提案であったようだ。
母も、父と同じく京都から大船へ。同じ経歴と、同じ言葉で話せる者同士が、この様な環境下で好意を寄せ合うことになるのは、自然な成り行きだったかもしれない。しかし当時、小津監督は会社でも別格の存在。父が気安く口をきける訳も無く、監督が溺愛していた母との交際にはなかなか苦労があったようだ。小津先生が「月ヶ瀬」に行く前に店を訪れ、先生の姿が見えると裏口から抜け出すような逢瀬が続いたらしい。だから小津先生に結婚を報告するのは、かなり気が重かったのだとか。快諾か、否かは定かではないが(笑)、めでたく結婚と相成って、姉と私はこの世に生を受けることとなる。結婚を機に、母よりもむしろ父と小津先生との間に父子のような親密な関係が生まれたことが、なんとも不思議であり、ありがたかったなとも思う。