【中井貴一の好貴心】特別編《スニーカー今昔物語-前編-》

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今回は、靴。というか、スニーカー。
数年前から第何次かは分りませんが、空前のスニーカーブーム。
ラフな格好は勿論、スーツでもスニーカーを合わせ、ちょこっと崩しを入れる。高級レストランでさえ、合わせによってはスニーカーでOKなのであるから、市民権を確実に得たといっても過言ではないだろう。
「お洒落の基本は、足元」と、昔からよく先輩に言われた。それもあってか、私の衣裳のコーデは、今も、靴からである。

運動靴がスニーカーと呼ばれ始めた、あの頃──
私のスニーカーの定義は、”高価でスポーツに使うのは勿体ない靴!”

中井貴一さん
オニツカタイガーのスニーカー
高校のマラソン大会のとき、テニス用ではなくランニング用を、と渋谷の百貨店で求めたオニツカタイガーのスニーカー。「セールでかなり安かったような記憶がある(笑)」。修理に出したところ「まだ生きています」と連絡があり、ソールの一部を修理した後、中井さんのもとに帰ってきた。

制服には革靴という常識を覆した”制服Pro-Keds”の衝撃

1970年代後半、それまでファッション雑誌、情報雑誌は、比較的女性のためのものが多かったが、男性向けの雑誌が相次いで創刊され始める。誌面では、スポーツ用のシューズを町履きとするコーディネートが紹介され、それをお手本にする男子も増加。その頃から、”運動靴”と呼ばれていた物が”スニーカー”と呼ばれることが日常化してきたように思う。当時、私のスニーカーの定義は、”高価でスポーツに使うのは勿体ない靴!”であった。

あらかじめ、申し開きをしておくが、私は、マニアックなスニーカー収集家でも、靴について、さほど蘊蓄をもっているわけでもない。服のコーデの一つとしての靴好きであり、子どもの頃、手に入れられなかった運動靴への憧れからの、スニーカー好きなだけ。故に、専門的な情報がないことをお許し願いたい。

公立の小学校から、中学受験で私学に入り、初めての制服に袖を通した当時の私は、まだまだお洒落などというものに縁遠かった。それが、高校になった頃から、雑誌の影響を受けながら、同時に異性を意識するようにもなり、それと呼応してお洒落にも目覚めていくことに……(笑)。当時、学生服の足元は、革靴が当たり前で、アイビーが流行っていたこと、脱ぎ履きが楽なことから、ローファーが主流となっていた。特にリーガルのローファーを履いていようものなら、皆からの羨望のまなざしを受ける。定かではないが、その価格は、当時7000円程であったように記憶している。学生には大変高価であったため、もっと安価で、らしい物を探すことに必死になったものだ。

そんな頃に、わが校で流行り始めたのが、Pro-Kedsのバスケットシューズ。ごく一部の余裕のある学生が、制服の下にスニーカーという暴挙に出、それが瞬く間に、皆の憧れとなった。7000円の革靴でフーフー言っている時代に、運動靴が1万円以上! これは、もう論外であった。

結局私は、高校1年、2年は、憧れだけで終わり、3年生まで必死にお金を貯め、黒のコンバースのワンスターのスニーカーを購入。Pro-Kedsを買わないところが、私の天邪鬼なところである。しかし、そのときの達成感と嬉しさは、今でも忘れられない。

2025

VOL.343

Winter

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