
時代を造ったクルマたち vol.07
戦前からスタートしていた開発プロジェクト
今年は“マセラティのグラントゥーリズモ生誕75周年”とマセラティは宣言している。今回は彼らがこのように語るバックグラウンドについて少しお話しさせていただこう。
そもそも、グラントゥーリズモとは第2次世界大戦後にメジャーとなった概念であって、スポーツカーでありながらも、それなりのラゲージスペースを備え、小旅行が行えるようなカテゴリーのモデルを指す。
マセラティはオルシ家の傘下となり、モデナにその拠点を移した後に経営の健全化を目指した様々な取り組みを行った。ヨーロッパの戦時体制の中では、レース活動のみで自動車事業の収支を取るのが難しくなってきたのだ。スパークプラグやバッテリー、工作機器や電気自動車などオルシ家は様々なジャンルのビジネスに取り組んだ。そもそもオルシ家を率いるアドルフォ・オルシの夢はモデナをどこにも負けないモーターシティとすることであった。その中でもマセラティのレース界におけるブランディングパワーを活かしたグラントゥーリズモの開発は、彼の大きな夢であったのだ。

1940年にはその第1弾プロジェクトの開発が始まり、マセラティ兄弟たちと共に1942年には走行可能なプロトタイプを完成させた。戦火が忍び寄るイタリアにおいてそのプロジェクトは極秘事項として進められたが、軍事産業へ取り組まざるを得ない状況の中で、しばらくの間、中断されることとなった。終戦と共に、彼らは早速プロジェクトを再開させ、1947年には第1号グラントゥーリズモであるA6 1500を発表した。当時の資料にはA6 1500トゥーリズモとも記されており、この1台がマセラティの記念すべきグラントゥーリズモ第1号車となるのだ。
A6 1500のディテールをチェック(画像2枚)
A6 1500にはそれまでのレースマシンに用いられていたスーパーチャージャーを配した新開発の自然吸気直列6気筒エンジンが搭載された。シャーシも専用のチューブラータイプであり、当時としては最新スペックを誇った。ボディスタイリングの開発は高い居住性と美しいスタイリングで定評のあったトリノのカロッツェリア・ピニンファリーナへと託された。ピニンファリーナはより斬新なヒドゥンタイプ・ヘッドライト(使用しない時はフラップにより隠れる)を採用したタイプと、よりラグジュアリーでオーセンティックなタイプ、2台のプロトタイプをマセラティへ提案した。マセラティが選んだのは後者であり市販モデルとしてめでたくラインナップされることとなった。

A6シリーズによるマセラティのグラントゥーリズモのラインナップは順調にアップデートが行われ、その集大作ともいえる3500GTで花開く。そのデビューとなった1957年にマセラティはワークスチームを解散し、経営の主軸をこのグラントゥーリズモへと移すことを決断したのだった。