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アグネス・チャン、紅白歌合戦、雑誌編集

——加藤和彦さん以外との仕事もされているんですよね。

松山 その当時、ヤマハの関係で結構有名になってたS-KEN(編注:日本のパンク&ニューウェーブを先導したミュージシャン、音楽プロデューサー)と知り合って、『自由通りの午後』っていう曲を書いたんだよ。作曲はS-KENで。

若い人の気持ちで書いた詞だったのに、その年の紅白でアイ・ジョージさんが「これを歌いたい」って言って歌ったんだよ。(編注:アイ・ジョージは、ニューヨークのカーネギー・ホールで日本人初となる公演を実現させたシンガー。彼が歌ったシングル『自由通りの午後』は、1971年1月にリリース。同年末の第22回NHK紅白歌合戦で、彼はこの曲を歌っている。紅白には12回連続出場したが、これが最後となった)

——それはすごいじゃないですか!

松山 おふくろは喜んだね、紅白で僕の名前がクレジットされて。アイ・ジョージさんの年代の人の歌じゃなかったんだけど、どこを気に入ってくれたのかわかんないけど、でもおかげでね(笑)。

あとゴールデン・カップスにも書いてる。ほとんど彼らの活動の一番最後の頃だったけどね。『悪魔にだまされた』っていうタイトル。もう1曲、『にがい涙』っていう曲。これは、もともとカップスのデイヴ平尾さんが作った詞があったのを、僕が補作したんだけど。(編注:A面『にがい涙』、B面『悪魔にだまされた』のシングルが、1970年5月5日リリースされている)

——どんどん広がっていきますね。

松山 『帰って来たヨッパライ』の版権を管理していた、パシフィック・ミュージック・パブリッシュメントの担当の人経由で、当時他にも、いくつか書いてるね。

例えば井上陽水。まだアンドレ・カンドレ時代。『花にさえ、鳥にさえ』っていう曲。

CBSソニーだったかな、あの人。アンドレ・カンドレ時代は、あんまりパッとしなくて、それで加藤と僕のところに話が回ってきた。2曲ぐらい書いたかな。あとね、オフコースにも1曲ありますね、『めぐり逢う今』。それから、フランスから来た女性シンガーのダニエル・ビダルにも書いたかな。ナベプロの人とも付き合ったし。

もうちょっと後になるけど、甲斐バンドも1曲がやりましたね。『メガロポリス・ノクターン』っていう曲。それが火曜サスペンスかなんかのテーマ曲になったりもしたように思う。甲斐くんの作曲じゃなかったけど、打ち合わせは彼とやってたね。(編注:1986年7月から9月にかけて放送された『現代恐怖サスペンス』第1シリーズの主題歌に採用された。作曲は甲斐バンドのドラマー、松藤英男)。

東京に出てきた当時、アメリカからベッツィ&クリス(編注:アメリカ人女性フォークデュオ。『白い色は恋人の色』をはじめ、日本語のヒット曲が多数ある)ってのが来るっていうんで、明治製菓のアイスクリームのコマーシャルソング書けっていう話が回ってきたこともあったね。

アイスなんて早くしないと溶けちゃうぞ、みたいなの書いたら、「すぐ溶けるのはイメージが悪い」って言うヤツがいたり、「いやいや、いいアイスクリームだからすぐに溶けるんだ」って擁護してくれる人がいたりで、結局採用になった。そういうの、いくつかありましたよ。

——日本語で、ですよね。曲は誰が?

松山 それは加藤が作った。コマーシャルソングで、レコードにはならなかったけど。アグネス・チャンが香港から来たのが、そのちょっと後だったかな。

——70年代の初めですね。デビュー曲の『ひなげしの花』がヒットしたのが72年。

松山 2曲目が、どういうわけか僕のところにお鉢が回ってきて、加藤と一緒に『妖精の詩』を書いたの。そこそこヒットした(笑)。(編注:1973年4月10日リリース)。

——いや、かなりのヒットでしたよ。そういう曲の詞を書くときは、もちろん本人に会うんですよね。彼女は、どんな印象だったんですか。

松山 お姉さんのアイリーンさんが、すごい別嬪さんだったことはよく覚えてる、なんて言ったらダメだね(笑)。会ったとき、その頃履いていたリーバイスが、だんだん横破れしてきてさ、元祖膝出しになってたような記憶があるね。

——元祖ダメージ・ジーンズ!

松山 ランボーが好きだったからさ。ランボーの詩にあるんですよ、コートの裾が破れて雲みたいになって、という一節が。そういう、現代のランボーを気取るみたいな感じがあったんだよ。あと竹内まりやとか、いろんな依頼があったね。

——アグネスはじめ、ある種アイドル的な人に書く難しさもあったんじゃないかと?

松山 経験がなかったからね。でも僕は自分ではアマチュアだっていう意識しかなかったから。文章の世界で生きてこうと、当時は思っていなかったんで。

——まだそういう意識じゃなかったんですね。

松山 頼まれればやるけど、その世界をあまり信用してなかったっていうか。僕にとってやっぱり大事なのはデザインだと思ってたし。でも、その頃は詞を作ることが仕事になっていったわけだけど、並行して70年から、『an・an』とか『平凡パンチ』とか関わり始めてたから。

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