1969年、テレビとフォークグループ
——加藤和彦さんがMCの、東京12チャンネルの番組はどんな感じだったんですか?
松山 「歌うフォークタウン」という番組で(編注:毎週土曜夕方に放送。番組初期の構成に、故・阿久 悠氏も名前を連ねていた)、加藤がメインで、榊原るみちゃん(編注:清純派として人気を博した女優)と、僕がアシスタント。
——京都と東京を行き来されたんですよね?
松山 最初は東京タワーのところにあった東京12チャンネルに、毎週行ったり来たりしてました。収録だったと思うんだけど。いろんなフォークグループが出てきた時代で、吉田拓郎とかが出てくる頃だからね。
——出演者はオリジナル曲を歌っていたんですか?
松山 オリジナル歌う人もいたかな。同じ時期に、TBSで中高校生が学校に行く前に見る朝の時間帯の『ヤング720(セブンツーオー)』っていう番組があったんだけど、司会が土居まさるとか、小山ルミとかね、占いはマリー・オリギン。この番組にも加藤と出ていて、コーナーでしゃべったりしてたね。
——今でいうバラエティ的な。
松山 そうだね、バラエティみたいな。加藤といっしょに、タイダイTシャツ、絞り染めのTシャツの作り方とかね。何やったかほとんど忘れちゃったけど、タイダイだけは覚えてる(笑)。
——当時のいろんなフォークグループが出ていたわけですから、そこでつながりも広がりますよね。
松山 その頃、ザ・モップス(編注:グループサウンズ全盛期の67年にデビューし、日本のサイケデリック・ロックの草分け的なバンドとして人気を博した。ヴォーカルは、後年タレント、俳優としても活躍した鈴木ヒロミツ)が準レギュラー的によく出てて、楽屋でもワイワイやってて。みんな音楽好きだから、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの曲なんかをいっしょに歌ったりしてたもんですよ。
——結構、刺激になりますよね。松山さんが、東京に出てこられた1969年は世の中的にもすごい激動の年じゃないですか。そういう世の中の空気に影響されたようなところもあったんでしょうか?
松山 あったのかもしれないね。なんか京都でのんびりしてる場合じゃないかな、みたいな。安保の時代だったし、東大の安田講堂事件も69年。三島由紀夫の割腹が翌年で、あさま山荘事件も、そのあと続いたり。
——我々と関わりの深い時計業界でも、ホイヤーやブライトリングなどの連合と、ゼニス、セイコーが、量産型クロノグラフの開発でしのぎを削った年だし、クリスマスにはセイコーが世界初のクォーツ腕時計を発売していますしね。それから、69年といえばウッドストックも忘れてはならないですよね。
松山 ウッドストックの映画は、早々に見ましたよ。リッチー・ヘイブンスとか、おもしろかったね、ジミ・ヘンドリックス、ジェファーソン・エアプレインとかね。僕ね、72年にグレース・スリック(編注:ジェファーソン・エアプレインの女性ヴォーカル。同バンドは、後にジェファーソン・スターシップに改名)と会ってんだよ。
——そうなんですか!?
松山 サンフランシスコのレコーディングスタジオで。彼女は何のレコーディングやってたのか、はっきり覚えていなんだけど、もうジェファーソン・スターシップになりかけてたかな。ジーンズのラングラーってあるでしょ。ラングラーが、お客にプレゼントするレコードセット作りたいっていう話があってね。
版権が切れた音源をいっぱい集めてきて、レコード何枚かとサウンズ・オブ・アメリカみたいなオリジナル版を作ろうということで、神戸でディスクジョッキーやってたアメリカ人と2人で、西海岸をオンボロ車で旅しながら音を拾って歩いたの。
その途中で、ジェファーソンがレコーディングやってたスタジオにも寄ったんです。そしたらマーク・ヘイゲンっていう一緒に旅してたアメリカ人が、僕のことを「日本でヒット曲を書いたリリック・ライターだ」みたいな話をしてたら、ちょっと手伝えみたいに言われて。「日本語で歌いたいから、この歌詞を日本語にしろ」とか言うんだよね。でも、「こういうふうに歌いたい」っていうんだけど、グレースの頭の中の日本語って三船敏郎調なんだよね。
——侍言葉?
松山 それは女の言葉じゃないからって言って、結局実現しなかった。今から思えばやっちゃえばよかったんだけどね、残念だったね。