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加藤和彦との出会い

——加藤和彦さんは、最初に出会った段階で、既に音楽活動をやられていたんですよね?

松山 うん。ザ・フォーク・クルセダーズを作る前に、同志社大学周辺の人たちがやってた「大塚孝彦とそのグループ」っていうのに参加してた。高田恭子(編注:後にマイク真木が結成したGSバンド、ザ・マイクスにヴォーカリストとして参加。69年のソロ・デビュー曲『みんな夢の中』がヒット、第11回日本レコード大賞新人賞受賞、第20回紅白歌合戦にも出場。1980年に引退)もそのグループにいたね。

その人たちが『ザ・ファースト・アンド・ラスト』っていう、最初で最後みたいな、要するに記念のアルバムを作ろうってなって。加藤がギタリストとして参加していて、僕はジャケットのデザインをすることになった。

その頃、京都はすごいフォークブームになって、いろんなところでフォークコンサートが開かれるようになっていた。彼らが仕切ってやるコンサートもあって、勤労会館だったり、どこかの教会だったりでやってた思うんだけど、加藤と何度も手伝ったな。僕は、ボランティアでポスターを作ったり何したりする、そういう役割に回って。

——加藤さんは、龍谷大学でしたよね?

松山 仏師だったお祖父さんの関係で、龍谷に入ったんだろうね。でも、あいつは音楽をそこまでやる気はなくて、学校を卒業したらフランス料理のコックになろうかな、とか言ってた。料理が好きだったの。音楽も好きだったんだけど、音楽でご飯を食べていくっていうところまでは考えてなかったんじゃないかな。ある意味、お坊ちゃんだからね、当時アメリカのスポーツ雑誌を取り寄せて読んでたり、ギターだってマーチンだったし。それもジョーン・バエズが使ってたのと同じタイプのをね。

——なるほど。やっぱり、そのころはジョーン・バエズがすごくアイコン的な存在だったんですね。そのあと、加藤さんはザ・フォーク・クルセダーズを結成することに?

松山 雑誌の『MEN’S CLUB』に、3行広告みたいな通信欄があって、そこに加藤がメンバー募集の投稿をしたんだ(編注:1965年の『MEN’S CLUB』9月号に、加藤和彦さんが「フォーク・コーラスを作ろう」と投稿した記録がある)。それに反応したのが北山 修。ほかにも何人か反応があって、自転車屋の息子の平沼義男、芦田雅喜、井村幹夫。井村は、後に博報堂の部長になって、もうリタイアしたけどね。最初はこの5人で、ザ・フォーク・クルセダーズ(編注:以下、フォークルと略称を用いる箇所もあります)が結成されるんです。実は、北山には、高校時代に一度会ったことがあったんですよ。

——どんな出会いだったんですか?

松山 あのころ、学生のパーティって多かったの。何かっていったら、みんなで集まるんですよ。四条河原町あたりでビル持ちのお嬢さんなんかがいるわけ。そいつのところの空いてるビルのスペースを貸してくれて、みんなが集まって、音楽聞いたり、ダンスしたり、そういう時代。まあ時効だから言うけど、高校生だったけど酒とかタバコとかもね。SNSとかない時代だもんね、ほんとに人と人が直接会うのが楽しかった。

ちょうどピエール・カルダンが髙島屋と契約して、カルダンのショーがあって、それを見に行ったあとの、そういうパーティみたいな集まりで、北山と会ったんだと思う。

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