暗雲垂れ込める中、登場したカムシン

そして、そういった規制への対応には当然、多額の費用がかかった。地元資本の少量生産メーカーではそれに対応することは難しかったから、1960年代終わりにはその経営スタイルが大きく変化した。フェラーリはフィアット、マセラティはシトロエンといういわばパトロンを見つけることでなんとか経済的基盤を確保した。詰まるところ、それまで好調であったスーパーカーメーカーの未来には暗雲が垂れ込めだしていたというのが真実であった。
さらに1973年12月に突然、世界を襲ったオイルショックには誰もが万事休すであった。いったい誰がガソリンを手に入れることができなくなる時がやってくると想像したであろうか? ガソリンの価格が高騰するだけでなく、スタンドからガソリンはすっかり消えてしまい、皆の関心事はハイパワーさの追求ではなく、いかにガソリンを使わずに走らせるかということへと激変した。そうなれば、湯水のごとくガソリンを飲み込む大排気量スーパーカーの需要が激減するのは当然のことであろう。まさにそんな不幸なタイミングの中で、カムシンのデリバリーは始まったのであった。
そんなワケで先代にあたるギブリが1200台あまりの実績を残したこととは対照的に、カムシンは430台余りしか生産されることはなかった。残念ながら、カムシンのセールスには全く力が入らなかったのだった。ちなみに1981年までこのカムシンはカタログに載っていたが、デ・トマソのマネージメントへ移行した1975年以降に作られた台数は微々たるものであり、実質的には3年ほどしか作られなかったと言ってよい。スタイリッシュであり、高い理想のもとにプロジェクトがスタートしたカムシンであったが、マーケットの激動に翻弄され、不遇のままにその生涯を終えてしまったのだ。