時代を造ったクルマたち vol.02
強化され続ける安全・環境性能へのレギュレーション
新世代のスーパーカーを目指したマセラティ カムシンが誕生した頃、自動車業界は一つの転換期にあった。北米を中心として衝突安全性、排気ガス清浄化へのレギュレーションが年を追うごとに強化されていたのだった。大量生産される一般車両においてもその規制への適合は難題であったが、高額なモデルを年間数百台作るというモデナのスーパーカーメーカーにとって、それはさらに深刻であった。「高価なクルマをクラッシュテストのために何台もつぶすワケにはいかないでしょう。だから工夫して1台のクルマで、それも売り物にはならない試作車などを使って、全部のテスト内容をカバーするように工夫したんです」とは、当時フェラーリのボディ開発や製造を指揮していたオスカー・スカリエッティ。
先だってランボルギーニ・ポロストリコにて1台だけが復刻され話題を呼んだランボルギーニ カウンタック 初号プロトタイプLP500だが、この個体は市販を控えたLP400のクラッシュテストによって1974年6月に破壊されていた。市販モデルのホモロゲーションのために犠牲となったのだ。しかし、これは考えてみるとかなりおかしい。市販モデルのLP400がチューブラーフレーム構造であるのに、初号プロトタイプLP500はモノコック構造である。両者は全く異なったボディ構造をしているではないか。その疑問に対して、チーフエンジニアであったパオロ・スタンツァーニが、「細かいことを言わず、“市販カウンタック”だと試験場に持ち込んだんだ」とウインクしながら語ってくれたのを思い出す。本来のクルマとは全く異なるプラットフォームであるにもかかわらず、公的試験に通ってしまうというのだから、牧歌的な時代であった。
くだんのカムシンも、規制に対応するためエアポンプとサーマルリアクターと称す排気ガスの再燃焼システムが北米仕様には装着され、燃費向上への対策としてとんでもなくハイギヤードなファイナル・レシオが設定された。衝突安全性確保のためには、無骨な5マイルバンパーが装着された。巨大なゴムの塊のバンパーと衝撃吸収のダンパーをボディへ取り付けなければならなかったから、シャシーも補強しなければならなかった。クルマはどんどん重くなり、パフォーマンスの低下は目を覆うものがあった。
カムシンの場合、特に不幸であったのがリアのスタイリング改悪だ。そもそもこの時代のスーパーカーには形ばかりのバンパーしか付いていなかった。絞り込んだコンパクトなリアエンドにはどうやっても武骨な5マイルバンパーはマッチしなかったし、ガラス製リアパネルに本来装着されるべきリアコンビネーションランプは、“なんでこんな位置に“とため息が出るような位置に移動せざるを得なかった。この北米仕様を見たデザイナーであるガンディーニは、きっと驚きのコトバを発したに違いない。「カウンタック(=なんだ、これは!)」と。