トランスコンチネンツ退職後は?
「Tさんのもとでは約4年働きました。彼女は私にとって最初の師匠と言える方です。仕事をしながら会話に出るのはパリのカメラマンやヘアメイク、ジュエリーデザイナーとのことばかり。パリの話が出るたびに、一体どんな場所なんだろう……と思いを馳せるようになりました。中学生の頃から海外で仕事をしたいと思っていた部分もあり、日を追うごとにパリに行きたいと思うようになったんです」。
「東京とパリの文化の違いに気付かされて、フランスでプロのモデリスト(パタンナー)として働きたいという思いが強くなりました。数年後ブランドは解散してしまい、私はいよいよフランスへ行きたい! と思いましたが、先立つものはありません。ファッションの世界は、給料も少ないので4年働いても貯金はまったくできていなかったのです。本当に渡仏したいのなら、アパレルから一度離れてでも資金を貯めるべきでは? どうせやるのなら、とにかく給料が一番高い仕事に就こうと考え、浴室リフォームの営業をしました。業績は良くて2400人いるセールスマンのなかで48位まで登りつめて、大金を稼ぐ月もあったんです。けれど朝の4時や5時まで仕事をして、毎晩殴られるような過酷な職場でした」。
いまでいうブラック企業でふんばったんですね
「1日に150件のアポなし営業をこなしました。働き始めて8ヶ月目、6週間休みなく働いたことで、突然肺に穴が開いて肺気胸で日赤病院に入院しました。それが25歳のときです。このまま、続ければ渡仏するどころか身体を壊す、と考え、(入社から)一年間で退職しました。ただ、360万円貯金することが出来て、これでやっとパリに行けると喜んでいたのを覚えています」。

「退職後、アテネフランセ(東京にあるフランス語の専門学校)に1年間通い、学校で知り合った妻とともに2003年12月に渡仏。最初の半年はドイツとの国境の街、ストラスブールの語学学校で学び、その後、パリに居を移し、アカデミー インターナショナル クープ ド パリ(AICP)に入学しました。Tさんと仕事をしていた4年間は非常に濃密な期間だったのですが、Tさんはデザイナーだったので型紙づくりの技術を持っていませんでした。ジャケットやコートなどの型紙を作るにも、当時の自分は専門学校を出て、独学で勉強していた程度の技術レベル。そのため、完成するまでには必ず壁にぶつかっていました」。
いよいよ入学となるわけですね
「服作りは80%のクオリティであれば誰でもできると思います。ただ、最後の20%をどのように作るかで、その服のクオリティが決まると考えています。当時の私には、その20%の壁を乗り越えるのがとても難しかった。いつも悩み、その核心の技術を教えて欲しいと強く願っていました。AICPに入学が決まり、これでようやく本物の服作りの技術を学べる! と思った私は、入学前に教科書を購入。そこに載っている200余りの型紙をあらかじめ引き、入学準備をしていました」。
「なんとか叶ったパリへの留学でしたが、(卒業後も)この街に残るためには学生ビザから労働許可証付きのビザに変更しなくてはいけない。それがどれほど難しいことかは渡仏前に留学経験のある方たちから嫌というほど聞いていたので、その難しさは理解していました。EU圏外である日本の人は仕事をするには労働許可証が必要なんですね。それが取得できなくて留学生の95%以上は帰国すると思います。なにがなんでもこの国に残る。そのためには労働許可証を取得しなくてはいけない。そんな思いでいましたね」。
入学前から、とても努力されたんですね
「また、入学前にパリのアルニスで研修生として働き始めました。入学までの数ヶ月間でしたが、アトリエではパリのテーラーリングを直に学び、そこで縫いの奥深さに触れられたと思います」。
【鈴木さんのコーディネイト提案 傑作選 PART2】(写真3枚)
鈴木さんがinstagramで発信しているコーディネイトの一部をご紹介