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中学生時代はアイビーファッションに心酔

聞けば、父方、母方ともにおじいさんはテーラー。そんな家系ゆえ、子供の頃から、家業を継ぐことは決まっていて、自身もそのつもりでいたそうだ。中学生になると、石田原さんが影響を受けたのが大ブームとなっていたアイビーファッション。

「毎月、メンズクラブ(婦人画報社:当時)を買っていました。学校には制服がありましたけれど、靴だけは自由だったから、ヴァンヂャケットのデッキシューズを履いていたのを覚えています」。

高校は横浜の慶応義塾高校へ進学。入学の少し前に実家は大阪から神戸へと引っ越した。高校時代はヴァンヂャケットを筆頭にアイビーファッション花盛りの時代。特に慶応義塾高校は、アイビー人気が高く、石田原さんもマディソンスクエアガーデンのバッグやリーガルのシューズを愛用していた。続いて進学した慶応義塾大学では高校から続けていた体育会弓術部に所属し、主将になるほどの活躍。

1968年の冬季五輪での石田原 弘さん
1968年の冬季五輪が行われたことで知られるフランスのグルノーブルにて。「着ているダウンジャケットは、たぶん当時のモンクレールだと思います」(石田原さん)

「大学卒業後の進路を決める時期になっても、就職に興味がなくて服地にまつわる用語を懸命に覚えていました。結局、卒業するとすぐにヨーロッパへ語学習得に行き、フランス、英国、イタリアに3年ほどいました」と石田原さん。

最初の海外生活はフランスから

最初に住んだのはフランス。「英語もしゃべれないのに、最初がフランスでした」と石田原さんは楽しそうに振り返る。フランス在住は1年半ほど。グルノーブル大学付属の語学学校に約1年間通った後、パリのソルボンヌ大学の外国人講座とスキャバルでの発送の仕事もこなす忙しい毎日が続く。

ついで渡ったのは英国だ。ロンドンや地方都市の語学学校に通った後、ヨークシャーのハダースフィールドにあるスキャバルで働いた。最後のイタリアには半年ほど滞在。語学学校へ通ってみると、イタリア語の習得は意外とスムーズにこなせたという。

「教わったらフランスと文法が同じで、発音が日本語と同じでしたから」。

バブル時代が到来して、日本人の若者が大勢海外へ渡るようになった。しかし、石田原さんが欧州を飛び回ったのは、それよりも早い1970年代末から。当時としてはこれほど国際的な体験をしていた日本人は、まだまだ一握りだったに違いない。

脇の下を通して、肩を斜め掛けにするなど複雑な計測も可能な鳩型採寸器。なんと自作の特別なツールだ。

脇の下を通して、肩を斜め掛けにするなど複雑な計測も可能な鳩型採寸器。なんと自作の特別なツールだ。

愛用のメジャーと針山。左の股下計測用のメジャーはスキャバルの販促ツールだったそうで、ロゴ入りのレザーハンドル付きだ。

愛用のメジャーと針山。左の股下計測用のメジャーはスキャバルの販促ツールだったそうで、ロゴ入りのレザーハンドル付きだ。

1978年、イタリアのビエラで撮影。イタリア人の友人宅にて。

1978年、イタリアのビエラで撮影。イタリア人の友人宅にて。

イースターの休暇の際にはイタリアアルプスでスキー。こちらは雪が軽くて、すぐにうまくなれるそう。

イースターの休暇の際にはイタリアアルプスでスキー。こちらは雪が軽くて、すぐにうまくなれるそう。

夏休みの期間だけ通った、コートダジュールの語学学校の仲間と。

夏休みの期間だけ通った、コートダジュールの語学学校の仲間と。

1978年、フランスのコートダジュールで撮影。右はスキャバルの重役の子息で、石田原さんは彼とともにフランス語の学校に通った。

1978年、フランスのコートダジュールで撮影。右はスキャバルの重役の子息で、石田原さんは彼とともにフランス語の学校に通った。

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