あの神戸ブランメル?楽部の仕掛人の生い立ちは?
1973年、ファッション都市宣言を行い、産学官一体となってファッションの街づくりを推進してきたのが神戸市だ。港町だったことから、おしゃれな街としてのイメージが強い同地に、職人の一面を持ちながら、さまざまなファッションにまつわる企画を手掛ける人物がいる。その方が石田原 弘さん。
オーダーサロンである石田洋服店の代表を務める一方、2011年から2016年の期間は、洒落者が集う神戸ブランメル?楽部の運営委員として、さまざまなイベントを展開。MEN’S EX本誌でも、同?楽部の活動はたびたび紹介されていたので、ご存知の方は多いだろう。
服地に囲まれて育った幼少期
今回は、そんな関西の洒落者のリーダーである石田原さんの経歴を取材してみることに。
「父が服地の卸売商をしていました。スキャバルの日本展開を始めたのが私の父です」と聞いて、驚いた。会社は石田商事。服地のみならず、のちにベルヴェストやアルベルタ フェレッティ、オズワルド ボーテングなど著名ブランドのインポートも行ったファッション企業である。お父さんの活躍されていた時代は、朝鮮戦争のための物資の輸出などから、日本の繊維産業は好景気。織機を一回ガチャリと動かせば、1万円儲かることから、「ガチャ万」なんて言葉があったという。
そんな時代の少しあと、1955年に石田原さんは大阪に生まれた。石田原さんが育った船場は繊維街として有名な地。「船場は住民が少なくて、小学校では、私以外のほとんどの生徒が越境入学でした。だから、近くに友達もいなくて、(家業の)店の若い人たちに遊んでもらっていましたね」と石田原さん。