高校卒業後も古着店で働いたんですか?
「お店なので当然自分が好きではないものも売らなきゃいけない。当初楽しく感じた販売の仕事でしたが、自分が集めていたヴィンテージの洋服に比べ、扱っていたものは奥行きがなく薄っぺらく感じました。古い洋服は手縫いで作り上げられていたので、物の存在感が強かったのですね。そういう真面目にコツコツ作られていた時代の洋服を見るうちに販売という仕事よりも作る仕事に就きたいと考え、メンズファッション専門学校(東京都・代々木にあった)に進学しました」。
「ところが1年目はあまり授業の面白さがわからず、60年代の英国車に夢中になっていました。MGの中古車を買い、箱根や大磯ロングビーチで行われるジムカーナ、草レースに参加し、アルバイト代をクルマにつぎ込みました。その時はエネルギーも有り余っていたので学校が終わった後は一晩中クルマで走り回っていましたね。そんなことをしていて1年目は終わってしまったんです」。
当時の鈴木さんのファッションは?
「専門学校1年目は70年代のパンクファッションをして髪の色も派手でした。金、白、ピンク、オレンジなど色々な色を試したんです。自作の白いスクールジャケットやレザーパンツを着用していました。2年目は黒髪にドレッド的なパーマをかけ、シルクハットやボーラーハットをかぶり、徐々にテーラードのファッションに興味を持った時期でした。映画『時計じかけのオレンジ』のファッションにも影響を受けています」。

その後の学校生活は?
「2年生で型紙作りのおもしろさを知ってから、1年目とは打って変わって真面目になり本気で勉強を始めました。もともと熱中するとグッと集中していく性格ということもあり、パターンの面白さに夢中になりましたね。将来はパタンナーになりたいと思うようになり、一年間集中して勉強して、卒業後の就職先はトランスコンチネンツ。就職氷河期と言われた時代でしたから36倍の倍率だったものの、就職ができました」。
「決まるまでに面接が5回。配属されたのはパタンナー室で男性はチーフ一人だけです。チーフが泊まれるように寝袋を用意しているような状況で、帰宅は毎日終電。女性の先輩たちも毎日深夜1時、2時まで仕事をしていて疲れていました。そんな生活に疑問を感じ、結局は3か月で退社することに」。
3か月間で印象に残っている出来事を教えてください
「手でパターンを引くのが好きだったのもあると思いますが、CAD(コンピュータによる設計)がしっくりこなかったんですね。また日々、仕事をしながら服作りに対しての疑問が湧いていたときに、レディスのデザイナーの方と話をするきっかけをいただきました。その方との出会いが一番大きな出来事だと思います」。
「話しているうちに『鈴木君はパリへ行った方がいいんじゃない?』と言われました。この方はTさんといってニューヨークとパリのパーソンズ美術大学(※)に通い、ヨーロッパで最難関と言われるフランス、イエールのデザイナーコンクールにおいて日本人で初めてグランプリを受賞した方です。当時、彼女は自分のコレクションを発表する準備中でした。Tさんは私が過去に出会ったことのないほど高い美意識を持っている方で、会話をしていると『あなたはなにが美しいと思うの?』と急に問われることが多々ありました。当時『美意識』について真剣に考えたことがなかった自分にとって、彼女の核心をついた直球の質問は、とても自分を成長させてくれました」。
※ファッション分野の名門校として名高い。ニューヨークが本拠地でパリに分校がある

「Tさんと出会った後、すぐに退社した私は当初デザイナーになりたいと思い、自分の作品を作り始めました。ただ、デザイナーといっても漠然とした思いがそこにあるだけで『結局自分の表現したいものは何なのか』と感じ始めていました。それから数ヶ月後、自身の作品作りを本格的に始めるため退社したTさんから『ブランドを立ち上げるから一緒に手伝わないか』とオファーをいただきました。いままで単純にヴィンテージの服が好きでいた自分に『美しいものとは何か?』を考えるきっかけをくれたTさんから、そのようなお話をいただけたのが、とても嬉しかった。ヨーロッパで、すでに16年以上、生活した彼女の口から出る言葉は、深く核心をつくものばかりで、私にとって新鮮で心に響くものでした。彼女の元で学びたいと強く思い、仕事をスタートしました」。
新たな発見はありましたか?
「スタートしてみてわかったのは自分の感性も技術も不十分ということ。Tさんの求めるクオリティと美意識を理解し、作品作りに関わるには、ひたすら生意気だった自分の性格を大きく見直さなくてはと思いました。まずは内面から見直そうと、一日40本吸っていたタバコをすぐに止めました。ほかのスタッフさんは吸っていないのに、自分だけタバコ休憩をしているのが許せなかったんですね。寝る時間を削って服作りに邁進していた時期でした」。
