疎開先で過ごした幼少期
坂井さんは昭和9年(1934年)の東京・広尾生まれ。「昭和でいいですか?」とにこやかに昭和の年号でお話しくださったので、今回は特別に昭和で坂井さんの人生をご紹介してみたい。4人兄弟の末っ子として生まれ、地元の小学校に入学。ところが、昭和20年の大空襲を機に新潟の親戚の家に疎開することになった。疎開先は農家だったため、子どもながらに過酷な農作業をこなしていたそうだ。「親戚の家の赤ん坊の世話もしなくてはいけないから、おぶったままの農作業。何度もおしっこで背中を濡らされました(笑)」。東京の自宅は5月に焼けてしまい、8月15日には終戦を迎えたが、坂井さんはそのまま親戚の家で新潟での生活を続けた。
ものがなくても楽しかった少年時代
お父さんの招きで東京へ戻ったのは昭和29年。このとき、坂井さんは19歳。お父さんが大塚製靴の社員だったこともあり、そのまま坂井さんも大塚製靴へ就職することとなった。「大塚製靴に勤めていたけれど、父は職人ではなかったんですよ。私は元来、ものを作るのが好きでしたので、もちろん最初から職人志望でした」。
坂井さんによれば、もの作りが好きだったのは子どものころから。
「とにかくものがない時代だったでしょう。子どもの頃は桐の木と針金で釣り具を作ったり、雨合羽を切り抜いてゼンマイ(植物)の綿を詰めて野球のミットを作ってみたり。ミットを作った時は怒られました(笑)」。
最初から手縫い職人の部署へ配属に
そんな坂井さんが配属されたのは手工(しゅこう)と呼ばれる手縫い部門。最初は修理から始め、5年くらい経つと既製品の製作を任されるようにもなった。慣れてきたころに、初めて注文靴の担当をすることに。「最初の一足はとても緊張しました」と坂井さん。手工部門では分業がなされていて、アッパーとソールを一体化する、最も重要な底付けの作業を担当していた。
当時の職場の様子について聞いてみた。「先輩方はあまり技術を教えてくれないんです。だから、最初は見て覚えるしかありません。それには結構時間が掛かりましたね。でも作ることに夢中でした。作ることは楽しい。その時ごとに出来栄えも違います」