【ロングインタビュー】作詞家・松山猛とその時代#3/イムジン河のこと

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九条大橋とトランペット

――後日、この曲の詳細を知ったのは、例の中学の吹奏楽部のトランペットが関わってくるんですよね?

松山 そうだね。トランペットっていうのはうるさいでしょう。だから、鴨川にかかってる九条大橋、大石橋とも言ってたけど、その物見台みたいなところへ練習しに行ってたわけ。そうしたら、もうひとつ向こうの物見台のところで、サクソフォンを吹いてるヤツがいたの。最初は何となく距離があったんだけど、何回か会ううちに「よう」みたいな感じで声をかけて。

僕らの住んでるエリアから、ちょうど鴨川を挟んだところに朝鮮系の人たちがいるエリアがあったから、朝鮮学校の子だろうなと思ってたんだけど、それが文君だった。それで、親しくなった頃に「君のところの学校で聴いた曲があるんだけど、僕はメロディしかわからないので」って鼻歌で歌ったら、「ああ、それは『イムジン河』だ。妹がよく知ってると思うので、今度妹に歌詞とか楽譜をもらってあげるよ」って言ってくれて。

そのあと、また会ったら、彼が朝鮮語小辞典をくれたんですよ。彼のうちは貧しかったようで、新聞配達のバイトをして買った辞書を、わざわざ僕にくれたんですよ。これでわからないところを訳したら、みたいな感じで。ちょっとハングルを読めるようになったので、それで勉強しました。全部は読めなかったけどね。

――彼は北朝鮮の人だったんですか。

松山 うん。京都には北と南のふたつの朝鮮学校があってね。鴨川の東側の我々のエリアのまた奥にも、朝鮮系の人たちの集落があったのね。結構仲良くしてた人もいたんだよ。

大山さんっていって、朝鮮名は張さんなんだけど、彼女は中学3年生のときに、弁論大会に出て差別の問題のテーマで、優勝したの。僕は同じ弁論大会に1年生で出て、宇宙開発とか、人類の幸福とは何かみたいな壮大な話をしたんだけど、全然評価されなかった(笑)。それで、すごく仲良くなったのね。

その後、社会主義国のことをもっと読んだらって、いっぱい本を貸してくれたり。彼女たちの家は、砥石屋さんをやってて、結構お金持ちだったね。多分、本国にたくさんお金を送ったりしてたと思う。我々の周りには、結構裕福な生活をしてる朝鮮系の人たちも多かったんだ。

別の集落にいた林君、リン君だけど、彼のお父さんも頑張った人で、うちの近所で一番最初にテレビを買ったんだ。お父さんは、子どもを楽しませてやろうっていうのと、テレビを買ったら、みんながそこに集まって来るかもしれないからっていう、そういう心理もあったようだった。いろんな友達がいたけど、大山さん一家をはじめ、何人かは帰国運動があって、北のほうに帰ったけどね。

――松山さんの中に、彼らとオープンマインドに付き合う素地ができていたっていうことなんでしょうね。

松山 原田先生みたなリベラルな人もいたし、まあ、親もリベラルな人だったっていうのもあって、人は差別しちゃいかんみたいなね。

――お父様はどんな方だったんですか?

松山 うちの親父は明治40年の生まれで、一から叩き上げで丁稚から始めて、絵の具屋さんの商売を暖簾分けしてもらって、後に仲の良かった人と会社を作るんですね。で、営業で西日本一帯で絵の具とか画材を売り歩いていたね。

――そういう流れがあって、松山さんも絵を描いたりということが...。

松山 そうそう。親父が「自分は絵の具を売るだけの人生だから、おまえは絵の具を使え」と。

――なんだか全部つながってきますね。話をちょっと戻しますが、それで、文君と出会って、その曲のことがわかってきたわけですよね?

松山 1番の歌詞と日本語に訳したものももらって。「イムジン河」の原曲は、50年代に作られたもので、作詞は朴世永という人。あの時代、北は工業化が進んでいた一方、南は朴正煕(編注:パク・チョンヒ。1963年から79年まで大韓民国大統領を務め、高度経済成長を推進した。79年暗殺される。第18代大統領に就任するも、罷免後に逮捕されたパク・クネは娘)が出てくる前で、餓死者が出たりして、すごく荒れてたの。

「イムジン河」の原曲の歌詞は、北は稲が実ってるけど、南は荒れ果ててるよみたいな、ちょっと政治的なプロパガンダを含んだような内容ではあったんです。それを僕は、新しく作られた民謡みたいなものという解釈というか、そういうふうに思い込んだっていうのもあるんだけど。それで、帰りたいのに帰れない、であるとか、もうちょと普遍的な、どこにでもある人と人を隔てる何かに対するメッセージにしちゃったんだよね、わかりやすく言えば。

まあ、偶然といえば偶然、そうなっちゃったんだ。だって、僕にとってはあまり知らない世界だったし、ある意味お節介なことをしちゃったわけだけど。でも、大山さん姉妹と仲良かったのに、彼女たちが北へ帰っちゃったことで、もう会えないっていう現実だとか、そういうのが心の中に残ってたので、そういう気持ちを借りたような歌詞になったんだね。

――その後、もう、彼女たちとお会いになることはなかったんですか?

松山 ないですね、どうなっちゃっているんだろうななんて、思うことはあるけど。

<次回に続く>

撮影/稲田美嗣 文/まつあみ 靖

バックナンバー:
作詞家・松山猛とその時代#1/1960~70年代のミュージックシーン
作詞家・松山猛とその時代#2/加藤和彦との出会い

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